苺録第11〜15回
懐かしい、半券。
第11回『半券』
あたしは色んな半券を持っている。ライブチケットの半券、テーマパークの半券、映画チケットの半券etc。その中でひときわ想い出深く、もうこれ以上増えないだろうなと思うのが…この乗車券半券。
一時期自動改札口を敢えて通らず、「持って帰りたい」と駅員さんがいる、その改札口をわざわざ探して、「記念乗車」の印や穴を開けてもらって一つ一つ大切に持って帰ったものだ。今ではその年月を語るかのように、色褪せてしまったが。
電車に乗り継ぎ乗り継ぎ、片道多くて4回乗り継いだその半券。電車に乗りもしないのに、電車の到着を待ちわびる証として見受けられる、一番安い入場券。一番高くて一番速く目的に着く、飛行機の半券。名前と座席シートが書かれたその半券をみれば、確実に自分が今その場所にいて、今から行くんだと心強くした、その半券。
当時、あたしはなんで半券を集めたのか、よく覚えている。決して“記念”として集めてたわけではない。ただこの半券、切符が残ることによりあたしは、またここに行けるんだと思った。半券が手元に残ってるということは、まだ未消化ってことだから、あたしはこれをまた吸収しに、収拾しに行くんだって、一枚一枚数が増えるたびに強くそう思った。というか、思えたのだ。
いつしか、この切符の数の増え方がどんどんのろのろになって、気付けばもう増えなくなった。そしてそのまま光が届かないところに隠れてしまった。そんなみんなが出てきてくれたのはつい先日。たまたま整理をしていたら、ひょっこり顔をだしてきた。透き通ったそのブルーのチケットは、陽の届かないところにあったはずなのに、ちゃんとセピア色に。
どうやら、脚光を浴びるか浴びないかの違いではないらしい。あたしの中でも、パステルカラーに発色しなくなったその半券たちは、お役目を終え、ブラウンシュガー色に苦く甘く香り始めた。
いつかまた半券を大事にとっておくことがあるだろうか?いや、ないだろう。もう同じような境遇になったとしてもたぶんないだろう。あのときだから、きっと出来た、自然とやっていたことであって、あれから5年の経験値を手に入れてしまったあたしは、おなじことを繰り返さない。
2005.05.01.
現在、一押しのデニム。
第12回『服』
初めて手にしたファッション雑誌は「mc Sister」だった。マンガ雑誌もろくに買わなかったあたしが初めて手にした定期購読本となり、小学5年生のあたしにはバイブル本となった。
それからというもの、ファッションには多大な関心を持っている。…と言いたいところであるが、そこまで神経使ってないのは確か。流行のものを「即決購入」だなんて、めっそうもない。小物は流行ものをたまに買うけど、洋服単品ではあまり買わない。昔流行った「ルーズソックス」「ミニスカート」「顔黒メイク」云々。買わなかったし、興味すら抱かなかった。そんなあたしはやっぱりファッション情報には疎いのか?だったらなぜ、「りぼん」や「なかよし」が流行ってた時代から、なぜ一人背伸びしてファッション雑誌に没頭していたのだろう。
あたしが思うに服なんて、自分の好きなもの、いいと思ったのものを取り入れたら、それでいいじゃないか!と考える。嬉しいことに、ウィンドショッピングをしていると、たまたま見つけた洋服屋さんのテイスト具合で友人が「あぁ、この店めぐっぽい」とか言ってくれる。嬉しいものだなーと、そのとき実感する。
あたしのテイストというのが、友人の中で出来ている。それが嬉しい。ファッションって、大事よ。見た目重視、何でもカタチから入っていくあたしにとって、ファッションはやっぱり気を遣っている項目の一つなのかもしれない。
よく、服は個性の一つだと言う。まさにその通り。人に評価してもらうために服を選ぶのではない。自分が、自分でいられるためにチョイスし、テイスティングしてゆく。
けど変な話、初めてニンゲンが衣服を身にまとったのは弥生時代。そのころは身を守るために布で覆ったことが起源だったはずなのに、今では付加価値の方が大きい。この時代の誰が想像しただろう?でももっとおもしろいなーと思うのが、日本人が「えっほえっほ」と狩りをしていた頃、ヨーロッパ、そうギリシアを見てみると、ポリス(都市国家)も成立し、革の鎧までもが世に出てきていた。しかも現代の基礎となっている、太陰暦なんてのはエジプトですでにこのときには生まれてた。おかしいものです。服で歴史がみれちゃいます。
あたしはこれからも自分のファッションというテイストを確立させていきたいと願うばかり。そして自分のファッション史なんてものが作れたらなーとか思ってる。あ、でもきっとこのファッション史には必ずといって、「リブ編み」は出てこないだろうけど。これだけはダメなんです、リブ編み。嫌いなの。歴史を作る前から排除されました、リブ編みさん。誰が歴史上一番活躍する人になるんだろうなー。
2005.05.14.
キレイキレイ
第13回『洗濯』
一人暮らしを初めてかれこれもう6年が経つ。どれだけ長い年月かというと、それは生まれたての赤ちゃんがもう簡単に二足歩行もでき、コミュニケーション能力をも完全装備し、自分より少し大きなランドセルをもうすぐ背負おうとする、それが6年という年月のすごさだ。そんな生まれたての子がそこまで成長する。そんな長い間、あたしは一人暮らしをしている。
とても変な感じだ。だってあたしはこの6年で何が成長したのか?おっきな変化があったかといえば、何も変わっていない。身長も変わっていない。顔も変わっていない。好みも変わっていない。そして相変わらず生卵は食べれない。変わったことといえば、人生二度目の引っ越しをしたということ、関西に戻ってきたということ、体重はおそらく日々変動。そんなもんだろう。
そんな何も成長ぶりもなにもないあたしが、変わらず家事で好むモノ。それは洗濯。洗濯機は毎日回る。学生時代は朝起きて、ピッとスイッチ押して、そのあいだに朝食、お化粧、一日のコーディネイトを済ませ、最後の仕上げに元気よく南ベランダに真新しい洗濯物を干していた。それが今ではこうだ。帰宅して一番にスイッチON。その間に簡単な夕食、お風呂を済ませ、最後に月が浮かぶ南の空を見上げながら洗いざらしの洗濯物を干す。
目にはそんな汚れが落ちた!なんて滅多に感じないが、でも洗濯するとなんか気分がうきうきする。自分も一緒にぐるぐる回って、一日の汚れが落ちて、新しい気分になる。しわをピーンと伸ばしながら、一つ一つ物干しにかけてゆく。落ちないよう、飛ばないよう、しっかりと洗濯ばさみでとめてゆく。その行程が好きだ。あたしもなにか一つ一つボタンをとめてゆく。明日はこうだ、今日はこうだ、自分のいる場所はこうだとか。
でもそんなあたしが嫌いな家事は、洗濯モノをたたむ作業。尻つぼみとはまさにこのこと。家事は立派な労働です。
2005.05.24.
もしもし?
第14回『エキセントリックな会話』
とある会話。
私:「思い出したよー」
某:「何を?」
私:「遠藤周作に似てるけど、違う名前。」
某:「おー、何やったん?」
私:「斉藤茂吉。茂吉さんよ。」
某:「全然違うやん。“藤”しか合ってへんし。」
私:「似てるやん、文体。けど茂吉さんはやばいで。」
エキゾチックな会話。以後、茂吉さんの熱い話で盛り上がる。そしてその後、NET上に茂吉さんが川沿いに体育座りをして、それを右横から捉えた写真を某HPでみかけた。茂吉さ〜ん。あんたはこの日本を今フィーバーする一任者だよ、んっとに。
小学校高学年、初めて茂吉さんに触れたとき、なんてキレイな詩を詠む人なんだと思った。中学にあがって俳句を詳しく勉強するにつれて、周りが啄木にひかれるなか、あたしは一人重くて群青色した和歌を詠む茂吉さんにますます惹かれていった。
あれから数年が経って、久々に茂吉さんに触れて、音楽な世界でいうと茂吉さんにはつばきの「来る朝燃える未来」、もしくはsyrup16gに似通うところを感じた。茂吉さん時代が、再び到来するよ、ほんとうに。
私:「茂吉さんの蛍なんちゃら…って、どんなんだったっけ?」
某:「あー、あったあった。何やったっけ?」
私:「あかあかと一本の道通りたり霊剋るわが命なりけり」
某:「その詩、松山にいる愛人を想って唄ったみたいやで」
私:「うそん?えー、やっぱあたしと茂吉っさんは繋がってる??」
このようにして、深夜3時、熱い会話が奇妙にも進められたのである。深夜徘徊族の、エロティカムンムン会話。
2005.06.13.
あったかいね。
第15回『手』
手ね。それは繋ぐと安心する物体。「手は一体何のためにあるの?」って聞かれたら、あたしは「隣に居て、一緒にいるんだよっていうことを意味づける確証」と答えるだろうな。
小さい頃の桜舞う季節、母に手を引かれて幼稚園の門をくぐりました。どきどきしました。遠足の時、初めての顔シリーズお弁当に心弾ませ、手を繋いで一緒に目的地まで行きました。運動会、金木犀の匂いを覚え始めた季節、手を繋いでデカパンはいてゴールに向かって走りました。
それから少し大きくなった私は、手を繋ぐということが恥ずかしくなりました。でもやっぱり手が冷たい私を温めてくれたのは、人の手でした。カイロでは温まりません、やっぱり人なのです。手を繋ぐと心が温まります、強くなれます。それだけで幸せになります。
あたしの心はなによりも、手を繋いでもらうことで全てが還元されます。単純なようで、一番難しいぬくもり大作戦。
頑張った証がいっぱいあるゴツゴツした手、繊細なところがにじみ出てる細い手、懐が広いことを裏付けたような大きなあったかい手…彼の手はどんなのだろう。彼女の手はどんなのだろう。きっとみんな想い出すことや、感触はひとそれぞれで、恋愛の熱も十人十色。
手を繋いであったかくなって、やさしくなって、安心感を得て、ほわほわして。じーじになっても、ばーばになっても、コトバを多く語ることはなくとも、二人手を繋ぐことで、最高のデザートをいただきたい。ただそれだけで、甘く、とろける、トロピカルな時間を、朽ちても今と変わらぬ若さで味わえるんだろうな。
あったかいんです、本当の繋ぐべき手に出逢った時。
2005.07.01.
