18℃

苺録第6〜10回

粋な写真でしょう?

愛用、眼鏡君。

第6回『眼鏡』

  世界になくなったら、存在しなくなったら…人が生きていけないもの。水、空気、食物。これが三大要素であるとするならば、あたしの三大要素の一つは、「眼鏡」である。視力が0.1もないあたしにとって、この眼鏡というのは世界を照らし出してくれる、唯一のもの。
  普段はコンタクトレンズに頼りっぱなしであるが、家の中ではもっぱら眼鏡。あと、その日のファッションに合わせて眼鏡外出もある。眼鏡はクリアに世の中のことをあたしにささやいてくれると同時に、着飾る一部としても利用されている。あたしの相棒だ。
  昔こんなことを思った。初めてコンタクトを装着したとき、なんて世界は明るいんだって。今まで眼鏡を通して目で見てきたこの世界は虚像で作り上げられてたのではないかと。若いね、そんなこと考えてた自分。眼鏡であってもコンタクトであっても、同じモノをみてる。人のとらえ方、感じ方で、世界の見方なんてもんは簡単に歪ますことなんてできるのに。
  モノを見る目を養う、それは両目1.5という素晴らしい視力をもつことでもなければ、視力をあげることでもない。大切なのは、モノを見る心だ。しっかりとした視力を持っていても、その目で見、感じる心が、考える頭が、発する口が、ろくでなしなら意味はない。
  再起動する自分の出発点は、この不自由な目を真っ先に治すことだとずっとずっと思っていた。裸眼では鮮明に周りが見えない、そんな自分が嫌だった。だけど大切なのは視力を落とさないよう努めることでもなければ、昔暗がりの中で必死になって本を読んでた自分を責めることでもない。モノを見る目を養う。ただそれだけだと思う。
  まー、眼鏡なんて不自由だ…なんて偉そうにずっと言ってるあたしなのに、強度の眼鏡フェチだなんていう事実。本当にこの世は屈折したモノだらけ。歪んでるのよ、本当にね。

2005.03.12.

横断歩道は手を挙げて渡りましょう。

仲間愛。

第7回『卒業』

  今まさに「卒業シーズン」なんだろなと思い、自分の卒業式を想い出してみた。
  幼稚園の卒園式、あまり覚えていない。小学校は涙流すことが恥ずかしくって、一人こらえてたっけ?この辺はまだまだ青い頃だからこんなもんだろう。
  中学校の卒業式。これは忘れられないシーン。もうひとりべらぼうに泣いてたあたしに、当時隣の席だった男の子が、いやとても仲良かったんだよね、彼とは。教室帰って一生懸命歯を食いしばってたあたしに彼は言った、「泣きたい時は思いっきり泣いたらええねん」と。今思えばキザな中学生。でも当時はその言葉に胸打たれ、彼の胸の中で大声出して泣いたっけ。恥ずかし気もなく。
  高校の卒業式。しけてた…早くこの学校からは卒業したくって、泣くということはなかった。終わって速攻、電車に飛び乗り…違う学校の人と逢ってたな、たしか。そしてそこで涙した。高校生が終わる、それぞれの道に進むってことで。離れたくない、これ以上離れたくないって。ただただそれだけ。若いね、あたしも。
  そして大学。大学の卒業式は泣くということはなかった。けど4年間連れ添った仲間との別れに胸が締め付けられた。まさに“青春”だった、あの日々。毎日どろんこになって、夏には黒こげになって、自由がなくって…嫌なこともたくさんいっぱいあった日々。でもあの毎日があったからこそ今のあたしがいる。想い出ではなく、成長過程だったと受け止めてる。それに嫌なこと以上に、もっと大切なモノをもらったから、誰もが手に入れることはできないものをもらったから、やっぱりどうしようもなくみんなが、みんなと過ごした日々が愛おしい。
  止まったゼンマイ式の時計は巻けば、またコチコチコチと音を立てて動き出す。だけど…これらの日々はネジを巻いたからってまた再生することはない。一生、その場所からは動かない。もう真空パックされてしまった。回しても回しても、誰も立って、待っててくれてやしない。動き出してるんだ、毎日。
  あたしは時計の秒針にの長針にもなりたくはない。一人であんなにも動いてるから。短針でいい、短針がいい。周りがどんなに動いても、どんなに変わっていっても、自分だけは変わらず、ゆっくり自分のペースで動きたい。周りが立ち止まって足下みたとき、フッと想い出してくれて、「相変わらずだね」と言ってもらえる。そんな自分でいたい、そんなポジションでいたい。
  卒業と新生活は隣り合わせ。卒業とはなにも“ステル”ことではない、“ハジマリ”なんだ。全部背負って、あたしは動くよ、これからも。

2005.03.20.

粋な写真でしょう?

仲むつまじいね。

第8回『背中』

  背中…それは誰もが持ってるもの。背中には色んなのがある。こんなのを聴いたことがないだろうか?「苦労している背中だ」と。
  あたしは背中、後ろ姿を見るのがとても好き、見られるのはあまり好きではないけれど。あたしの前に大きな背中、温かい背中があると、とても落ち着く。あたしが迷いながらも今ココにいるのは、愛しい人たちの様々な背中があったから。
  一歩前をゆく、みんなの後ろ姿を必死になって追っかけて、あたしはみんなに追いつこうと必死だった。追い掛けるその距離が一定でなくなったとき、振り向いていつも手を差し伸べてくれた。「おいで」とやさしく、振り返って。背中を見れば、人の優しさが分かる、人情が出る。そんな風に思う、あたしは。

“背中が人の歴史を語る。”

  たまには後ろから、冷えたあたしの背中を温めて欲しい。大きなブランケットで包み温めて欲しい。そんな風に思うのは、あたしが少し疲れてる証拠なのだろうか。だけどこの背中を温めてくれるのは、効果を出すのは決まっていて…きっとみんなも各々のブランケットを持っているのだろうな。
  それに気づき、大切だと思ったとき、愛おしく思えた時、幸せを感じるのだろう。春の柔らかい日差しのような、そんな心地。
  背中…あたしが大好きな場所、追い掛ける場所。背中から伝わるその各々の電波をキャッチして、後押しされて、あたしは前に進むことができる。その足取り一歩一歩に、安堵と自信を感じながら。

2005.03.24.

つばき「向こう側」!

ごくごくいきましょう。

第9回『マグカップ』

  毎朝私のメニューは決まっていて、食パンにヨーグルト、きなこ牛乳。飽きもせず毎日不動の地位を6年確立。パンはその種類によって変わってくるが、基本的に5枚切りを購入する。だから1斤だと、一週間のサイクル内で終わってしまう。すごい消費力。
  そしてそんなパン派の私の側にマグカップ。朝はきなこ牛乳、夜は湯飲み、たまに友人達が来たとしたら、自分専用のマグカップに早変わり。私にとってマグカップとは臨機応変に変化してくれる代物。そもそもマグカップを湯飲みにするなという話だが、一番しっくりくる。
  一番厄介なのが、目的あって食器を見に行っているのに、いつもマグカップが目にとまるということ。気が付けば手が伸びて購入。食器の中で一番無駄に多いのがマグカップ。なんでこんなに惹かれるのかわからない。そして好みにも周期があって、ほんとに四角いものが好きな時期があったかと思えば、次は丸みを帯びた物に惹かれ始める。…かと思っていたら、次は小さなマグカップ。
  一足伸ばした先で購入するのも決まってマグカップ。運転免許交付を受けたその翌日、友達4人を乗せた車で向かった先は、チボリ公園。別におみやげなんて買う必要もないのに、買って帰ったのは、チボリマグカップ。50th記念目前に控えたディズニーストアで嬉しそうに買ったのも、やはりクラシカルなミッキーとミニーが描かれていた四角いマグカップ。生まれて初めての一人暮らし、それを目前に控え、心ときめかせフライングで購入したのもマグカップ。
  手が冷える夜はお気に入りのマグカップにホットミルクを注ぐ。汗ばむ季節になると、氷を入れたカップにソーダー。普段は炭酸なんて飲まないのに、不思議と汗をかいたマグカップにソーダー水はよく似合う。
  こんな風に私のライフスタイルを彩ってくれているのは、マグカップなのである。最近は理性というコトバを覚え始めたのか、マグカップを見てにたにたして、手にとって、またにたにたして…それで終わる。そっと元の棚に戻すようになった。自分がいいとその瞬間思っても、簡単に手を出してはいけない。そのマグカップ一つ一つにそれぞれのバックグラウンドがある。混沌とした過去と現在がある。理性と知性をフル回転に、私の脳内は少し成長した。抑制という経験値をゲットした。
  けどね、やっぱりマグカップを見ると落ち着くし、部屋でおとなしく並んだカップ達をみれば穏やかになる。そっと寄り添うように並ぶカップ達。未だ、マグカップの魅力とは何かという謎は解けていない。だけど、いつしか一つのマグカップをひたすら愛し、そのマグカップは私の朝食メニューのように、不動の地位を確立する。そんなマグカップに出逢いたいと思っているのは確か。
  大切にしよう、これから出逢う一つ一つのマグカップ。ありがとうって言おう、今まで出逢ってきた数々のマグカップ。

2005.04.05.

見ての通り、鍵です。

写真も、左より。

第10回『左』

  あたしは右利き。だけど左をこよなく愛す。
  幼少の頃「手を挙げて横断歩道を渡りましょう」と教わった時、あたしは左手を高々とあげた、澄み切った青い空に何の迷いもなく。その手は栄光を手にしたようにキラキラ輝き、洗礼を受けたのだろうか。キララキラリキラキラリ。それがあたしの記憶に一番古い、左伝説の始まり。
  以後あたしは荷物を持つときも左。寝るときはいつも左耳を下。靴下をはくのも左から。コンタクトを入れるのも左目から、扉を開けて、その第一歩も左足から。
  つまりあたしは何をするにも左から。だからあたしの右手側に何かがあると安心する。人と歩くときは左側をキープ。自然と右をポジションとってくれる相手だとかなり歩きやすい。逆に異性で自分を左に、あたしを右にもってくる人とは合った試しがない。
  なぜあたしが左にこんなふかふかとした、柔らかい居心地の良さを感じるのか自分でもよく分からない。だけどあたしは左が好き。なぞめいた場所、それが左。温かい場所、それが左。落ち着く場所、それが左。
  世の中は右回りの時計を軸に。地球も右回りを基本に。それなのにあたしは、自然の摂理に反旗を翻す。
  ふかふかふかかふか、ふかふかふか…

2005.04.21.