『I』…AI
『I』…AI
i///「愛」
なんて大きなテーマを掲げてるんだろって後になって後悔するのだろうか?はい、今回は「I」ということでそのまま音読みした「愛」という辞苑。ちなみに広辞苑で意味を開いては意味がない。だってココ「苺辞苑」は広辞苑の苺版というコンセプトを一応もっているからだ。では、試しに小学館「大辞泉」による「愛」とは何ぞや?大辞泉によると、大きくわけて4つの愛があるらしい。
1.【親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち】
2.【異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。】
3.【ある物事を好み、大切に思う気持ち。】
4.【個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。】
5.【キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。】
6.【仏教で、主として貪愛のこと。】
項目が後半になってゆくほど難しい。だってあたしはキリストを愛していないし、仏教をひたすら信仰しているわけでもないから。自由心なあたしなので、文化や文明を語るような愛はさておき。一般に思いつくのが家族愛に芸術愛に異性愛…そんなところだろうか?
家族愛については「F」で綴った、その信憑性はここではおいといて。芸術愛はおそらくこの苺辞苑そのもの、神髄だろう。で、めったにでてこないと思われる異性愛。語るには難しい。色んな愛の形があるだろうし、そもそも「愛」と「恋」の違いって何よっていう、複雑に絡んだ話をしなくてはいけなくなる。それはあたしの体力と頭脳がついていけないためここでは省略。単に「愛」について思うところを書いてみるのであるが…。
異性愛…異性から注がれる形に、異性に捧げる形。他には何がある?その答えにふさわしい答えらしきものを、最近某ギタリストのブログで見つけた。そのギタリストが述べるには、「好きな気持ちを伝えることも出来ないまま終わった恋はさらに最強」とそう綴られていたのであるが、まさにこれこそ愛だな…と。勇気がなくて、タイミングがなくて、伝えられなかったというケースも考えられるだろうが、こうも考えられる。その相手の気持ちや境遇、状況をみて“伝えられなかった”
だとしたら、これこそ寂しいかもしれないが、完全な愛の形としてカウントできるとあたしは思う。自我を抑制するのは並大抵の力ではない。それに「好きな人が幸せになることが自分の幸せ」なんていうフレーズをよく耳にするが、果たしてそうだろうか?とよくあたしは思う。好きな人が他の人を、その温かい腕で抱きしめ、一心にその人だけに愛情を注いでいるなんて、心から100%喜べない。あたしはそんな醜い女だ。
この考え方が理解できないあたしだからこそ、この形が「愛」の一つとしてとても魅力的に感じるだけかもしれないし、そんなことがあるのならばそれこそ究極だという願望なのか。
語れば語るほど迷宮ラビリンスで、どんどん話がそれていきそうだからそろそろまとめに入るわけだけど、そもそも人によって様々だろうから、愛なんていう言葉定義をすること自体、もしかしたらおかしいのかもしれない。結局のところどうなんだ?っていう話ではあるが、あたしが思うに「愛って何?」と考える時点でアウト。
様々な愛の抽象的に表すことはできるかもしれないが、本当の「愛」なんてのはおそらく形があってないようなもの。浮遊物。みんな誰かに愛され、自然と誰かを、何かを愛してるのだと思う。その中で「この人」とか「アレ」とか特有の物質が存在するかもしれないが、某ギタリストが述べたように気持ちを伝えられなかったその恋も「愛」なんだとあたしは思うし、思いたい。異性愛に関しては特に、自分が望んだ結果にならなくとも、その過程そのものが「愛」なんだと。
要するに最後に何がいいたいかというと、「愛」なんていうKWを述べようとしたあたしは「愛」を見失っている状態。常日頃、誰もこんなことを考えない。誰から愛をもらって、あたしは何に愛を分けたとかそんな話はあり得ない。
だから「愛」とは無形。「愛」とは日常。「愛」とは生活そのもの。
2006.04.28.
